大韓帝国設立前史 2

1898年10月、中枢院を改組して議官の半数を独立協会から選出するとともに、その審議権を強化して事実上の立法機関とするよう政府に要求した。
独立協会が万民共同会を開いて政府に迫った結果、10月末に官民共同会(政府と独立協会、万民共同会の合同集会)が開かれ、そこにおいて「献議六条」という国政改革案が決議された。
主な内容は、
  1、外国人への利権供与は、大臣・中枢議長の承認を要する
  2、財政はすべて度支部が管理する
  3、勅任官の任命は政府の協賛を要する   等

政府・中枢の権限の強化と専制君主権の制限を図ったものといえる。

趙秉式ら守旧派官僚は、11月はじめ、独立教会が共和制の樹立を企てていると誣告する「匿名書」を漢城市内に散布し、これを口実として独立教会を解散させ、その指導者李商在らを逮捕し、守旧派政府を成立させた。独立協会と漢城市民は連日、万民共同会を開いて弾圧に講義し、守旧派大臣の処罰と、献議六条の実施を求めた。これに対し、皇帝・守旧派は、褓負高を動員して万民共同会を襲撃させる一方、肯定の親諭によって万民共同会の解散を図った。
12月に入り、中枢院(議官は官選であったが独立協員を含んでいた)が大臣候補者を選んだが、その中に朴泳孝が含まれていた。守旧派はこれを口実として軍隊を出動させて万民共同会を弾圧し、独立協会を解散させ、改革は実施されないままに終わった。


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